【第四章】深センでの生活が始まる

中国へ渡る準備が整い、2003年3月24日より中国深センでの生活が始まりました。とは言っても、会社を設立する事務所、自分が住む住居、日本語が話せるスタッフが決まっていただけで、それ以外は現地に入ってから進めていくことになりました。

カバン3つだけの海外赴任

中国の賃貸住宅は基本的に最低限の大型家具家電などはついた状態で貸してもらえます。それゆえに単身の場合は引っ越しといったたいそうなことはしなくても、最低限必要なものだけで移り住むことができます。また深センは亜熱帯エリアであるため、冬服は不要。よって仕事関連の資料やノートPCに夏服と最低限持っていきたいもののみで良かったのでスーツケース1つにリュックと手提げバッグの3つだけでした。

赴任期間の決まっていない片道切符だったので、必要なものがあれば現地調達すればいいと思っていました。到着当日は寝具系を大家さんに近くの小売店へ連れて行ってもらい購入。その他ドライヤーなどの小さな日本の家電モノは電圧が220Vなので使うことができないため、持ち込まず必要と感じたときに順次購入していきました。

生活拠点は「経済特別区」内の福田区

当時の中国は「世界の工場」と言われており、日系企業の進出はまだ生産の拠点としての法人設立がほとんどでした。それゆえに日本人が多く赴任していたのは、深センから北西方面の広州に近い工場集積地『东莞(dongguan)』というエリアでした。

一方、ボクは販売目的のために保税区に会社を設立したため、住居は事務所に近い経済特区内の『福田区』にしました。特区内でも外国人は環境が良く比較的安全ということで『南山区』に住居を構える人が多かったのですが、通勤を考え福田区となりました。

福田区福明路沿いの「嘉汇新城」というこのマンションの16階が住居でした。(2007年撮影)

また当時、外国人が住む場合は「ホテル式マンション」と呼ばれるサービスアパートメントが主流だったようですが、何も知らないボクは一般市民の大家さんの2LDK賃貸マンションを4700元で借りていました。これでも中国では高級マンションの部類です。玄関ドアは防犯のために「スチールドアと鉄格子の2重ドア」でした。深センの住居はほとんどが玄関ドアはもちろん2重で、低層であれば窓にも鉄格子がついているのも当たり前でした。

ちなみに当たり前なのですが、日本のように「玄関」という靴を脱ぐスペースはなく、ドアを開けるといきなりリビングが一般的です。ようはホテルのような感じですね。現在は室内履きと区別する人がほとんどとなってるようですが、当時は土足のままのご家庭も多く、上階を歩く靴のコツコツという音がよく聞こえました。

周辺はほとんどがこういった住居で、1階は鉄格子などを作る板金屋や飲食店が多かったです。(2007年撮影)
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当時このエリアで日本人向けのホテルは「粤海酒店(YueHaiJiuDian)」でした。サービスアパートメントとしても対応していたような記憶があります。

食費は一食7元程度で十分

赴任初日の晩ごはんはひとりで近くにあった『肯德基(ケンタッキー)』へ。メニュー写真があるので指差しでなんとかなるだろうといった感じでした。初日はそれでしのげたものの、毎日のことなのでその後は昼間にスタッフとランチに行くたび注文の仕方などを教えてもらったりしました。

またランチの際は、スタッフにいつも普段行く店に連れて行ってほしいとお願いし、基本的には『快餐(ファーストフード)』と呼ばれる一般使いする店で食べていました。およそ一品4~7元ぐらい(当時で50~100円程度)なのですが、メニューは画像などなく、メニュー名を見ても何なのかわからないため、ひとつ覚えるとそればかり食べてました。始めの頃は食べやすかったので『印尼炒饭』という日本で言うカレーピラフが多かったですね。徐々にそのパターンが増え、1週間は同じメニューを食べなくて済むようになりました。

近くに一軒だけ「なんちゃって日本料理店」がありましたが、「ざるそば」は不味くて20元(およそ280円)ほどしたのでほとんど行きませんでした。ちなみにカレーは黄色いカレー味のスープを掛けたような感じで、日本のカレーとはかけ離れていました。

自分自身自炊などしたことがない(実は料理ができません)ので基本は外食。栄養を考えると野菜や果物も取らないといけませんので、スーパーでりんごをよく買って晩ごはんにしていることもありました。南のエリアは果物が豊富で安かったです。りんごは1元(およそ14円)でした。

よく通ったマンション横の店。

一番多く利用したのはマンション横の『沙县小吃(ShaXianXiaoChi)』でした。ココではいつも「蒸饺(ZhengJiao)蒸し餃子」+「拌面(BanMian)ゴマダレあえの麺」+「啤酒(PiJiu)大瓶ビール」の3つを注文するのがボクの定番で、これだけ食べても5元(およそ65~70円)でした。

このゴマダレが最高に美味いんです。「蒸饺」は10ヶです

とにかくうまくて安くハマってしまい、同類のチェーン店が全国展開していましたので中国にいるときはよく食べました。ただボクが本帰国する2016年頃には3~4倍ぐらいの値段になってしまいましたが・・・。

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2003年の人民元レートはおよそ14.4~13円/元程度をウロウロしていました。

話せる中国語は「ニーハオ」と「シェシェ」だけ

決まってすぐに赴任だったため語学勉強は一切ないまま中国での生活が始まりました。赴任時は誰もが知る「ニーハオ」と「シェシェ」だけでした。麻雀もしないので1から10まで数えることもできません。仕事のために日本語ができるスタッフを採用していましたが、就業時間を過ぎてまで付き合ってもらうのは避け、仕事が終わってからの時間はほぼひとりで行動していました。

赴任当初はネットで語学の家庭教師を探し、週イチで教えてもらう機会を設けました。しかしながら、晩ごはんを食べに出かける、スーパーへ買物に行くぐらいなので、必ずしも中国が話せないと生活ができないわけではなく使う機会もほとんどなかったので、3回目ぐらいですでにわからなくなり、結局ひと月ほど経った時点でやめてしまいました

お酒が好きなこともあり、食後はバーを探して行くことがありました。バーと言ってもカジュアルなミュージックバーのようなお店で、スタッフの中に片言英語を話す青年がいたので仲良くなりました。気がつけば深センでできた友人はおよそ英語が話せる人ばかりでした。ボク自身英語ができるわけではありませんが、中国語よりも多少はわかるのでいつの間にか英語が日常の標準語になっていきました。

あとから思えば、深センで中国語を勉強しなくてよかったと思っています。というのも、「第3章」でもお話しましたように正しい標準語を話せる人がほとんどいなかったからです。おそらくですが、深センで中国語が話せるようになっていたら、かなり「なまっていた」のではないかと思っています。

結局深センで過ごした1年3ヶ月でまともに使っていた中国語は数え切れる程度のものでした。

  • 簡単なあいさつ:「你好(こんにちは)」「谢谢(ありがとう)」「再见(さようなら)」「对不起(ごめんなさい)」など
  • 私は~です。あなたのお名前は?:「我是~。你叫什么名字?」
  • 自宅マンション名とオフィス:「嘉汇新城」「福田保税区」
  • 聞いてもわかりません、知りません:「听不懂」「不知道」
  • イエス・ノーと相打ち:「好」「不好」「对」「不对」
  • ~へ行きます(行ってください):去~

あとは地名を少し覚えて、基本的には上記を使いまわして生活していました。一番良く使ったのは「听不懂(聞いてもわかりません)」でした。中国語で話しかけられてもチンプンカンプンなので、「听不懂」と言えばそこで相手が話しかけなくなるので逃げの手段として、でした。(笑)

海外赴任者の規定はなし

以前勤めていた会社に対してどうのこうのという意味ではありませんが、当時の状況を軽くお伝えしておきたいと思います。

当時まだ海外進出をまともにしていた会社ではなかったこともあり、社内に海外向けの規定はなく個別にご相談、と言った状況でした。ボクはとにかくこれまでと違う仕事がしたいということだったので、他社の事例なども全く調べることもせず、おカネの話はサラッと済まして赴任しました。その時の条件は非常に簡単なもので下記の通り。

  • 現地での家賃は会社持ち。
  • 日本で所得税・住民税がかからなくなる分、中国でかかるのでそれを会社が負担。
  • 会議などの仕事以外での一時帰国は年2回まで会社持ち。

要するに「税金を会社が負担する=赴任手当」と言った感じでしたが、後に北京へ移動し2年ほど経ってから日本人との交流が増え、この手当についていろいろとわかってきました。この辺についてはまた追ってお話したいと思います。

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