【 第三章 】20年前の「深セン」という街

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20年間の中国回顧録も第三章に突入。ズッとご覧頂いてる皆さんには感謝です。頑張って更新しますね。

中国において北京・上海・香港・四川などは観光地などでもあるためご存じの方は多いかと思いますが、今ではメジャーな「深圳(ShenZhen)」も中国でのビジネスに関わっていない方々にはあまり知られていなかったのではなかったのではないかと思いますので、まずは深センについてあらためて簡単にまとめてみたいと思います。

深圳(深セン)の概要

現在深センを調べてみると下記のような街です。(下記データはWikipediaをはじめ、いろいろなサイトなどを参照しました)

  • 位置:広東省の南東部で、香港と接する。
  • 面積:1952.84k㎡(大阪府がおよそ1900k㎡)
  • 人口:約1768万人:2021年統計(東京都がおよそ1400万人)
  • 行政級別:副省級市(省の管轄下だが経済・財政と法制の面で省と同程度の自主権が認められているレベル)
  • 気候:亜熱帯で湿度が高く蒸し暑い。年間平均気温は22度前後。
まだ開発途上の2003年の深セン。右奥が当時一番高いと言われていた「地王大厦」というシンボルタワー。

元々このエリアは「宝安县」という漁村で、当時は1~2万人程度の村だったようですが、「改革開放」が始まった1979年3月に「深圳市」に格上げされました。改革開放とは、簡単に言うと鄧小平氏が経済を立て直すために打ち出した「国内の改革と対外開放政策」のことで、これにより中国の経済は一気に加速しました。

その際に「経済特区」を5箇所設置。そのうちのひとつがココ「深セン」でした。その名の通り、特別区なので、特区に入るにはイミグレのようなゲートが設けられ、証明書がないと入れませんでした。外国人の身分証明書は「パスポート」なので、どこへ行くにも常に携帯しておかないと困ることが多かったです。

昨今では「中国(アジア)のシリコンバレー」と呼ばれ、テンセント(微信:ウィチャット)、HUAWEI、DJI(ドローンのトップブランド)など、名だたる中国のIT企業が拠点としている深センですが、当時は「パクリもんの生産拠点」といっていいほどニセモノが溢れかえっていました。人口だけとっても、ボクが赴任した頃は400万人程度と言われていましたので、20年ですでに4倍以上に膨れ上がっています。というのも、大学を卒業してから5年以内に起業する若者には高い補助金を支給するなどの制度があったこともあり、現在は高齢者の少ない若者の都市となっているようです。

歩くとモノが飛んでくる街

2003年の深センはメインストリート(深南中路)沿いを走っているとかなりきれいな新しい街に見えましたが、筋ひとつ入ると別世界(元々の街)の風景が見えるといった感じでした。

当時「深センってスゴくきれいな街なんでしょう?」という人も多かったですが、メイン通りから一筋入るとこんな光景が普通でした。(2004年撮影)

赴任前に深センってどういう街なのかいろいろと調べていました。スリや盗難等は普通にあるだろうとあまり気にしていなかったのですが、一番ビックリしたのが「空からモノが降ってくる」ということでした。記憶が曖昧なのですが、確かネットで調べているときに発見したと思います。深センのTVCMで「窓からテレビを投げ落とし、危険なのでやめましょう」というショッキングなCM

まさかそんなムチャなことはしないだろうと思いながらも半信半疑だったため、道を歩くときは常に上を意識していました。さすがにテレビが落ちてくることはないのですが、上を見上げるとスーパーバッグ(買い物した際に入れてくれるレジ袋)はフワフワとよく空を舞っていました

道を歩いていて一番ビックリするのが、空ボトルが飛んでくること。路上に多くの小さな商店が並んでいるのですが、店の中から飲み終わったボトルなどを道路めがけて投げるというわけです。車道の方まで届くように投げるので、ボ~っとしていると当てられそうになります。現地の子に聞くと当たり前のことで、路上にゴミが無くなると清掃員の仕事を奪うことになるのでいいのだと意味不明な回答。

また飲食店も然りで、テーブル上のゴミや食べかすはそのまま床に落とす。店員に灰皿をお願いしても床に捨てろと言われる、つまり「床や路上=ゴミ箱」ということが当たり前の環境でした。

レストラン前の路上に散乱したひまわりの種の殻。順番待ちでひまわりの種を食べながら待ちます。

夜が長い華南エリア

亜熱帯エリアで年中暖かいこともあり夜も人がウロウロしています。夜中になっても暗闇の路上に座り込んで酒を飲み大声で宴会をしている光景は普通でした。中国語の会話は発声方法もあってか、とにかく声の大きい人が多い。初めて聞く人にとっては喧嘩でもしているのかと勘違いするようなイメージが多い中国語でした。

赴任当時は不気味で恐怖感もあったのですが、夜の街を散歩するようになるとそれも日常となり慣れてしまいました。ちょうど近所にウォルマートがあり、買い物に行くのですが、そこまでのルートが結構にぎやかでした。

ウォルマート前の路上。大音量で音楽をかけダンスをしている方も大勢。

広州で聞いた話なのですが、夜が長い生活環境であるため、朝の就業時間が10時からという会社も多いということでした。

外地の人間ばかりの集合体「深セン」

「改革開放」が始まり急激な発展を遂げた深センですが、当時の深センは「純粋な深セン人」がほとんどいない街でした。というのも元々人口の少ない村を新しい街に作り上げるため、周辺外地から多くの人が流れ込んでいました。当然仕事の少ない地方や田舎の人が多く、広州などの都会から深センに働きに来る人も少なかったと思います。

当時聞いた話では、タクシー運転手は広西チワン族自治区から集団就職で来ており、そこそこ大きい集合住宅まるごと宿舎になっているということでした。それゆえにタクシー運転手の言葉は故郷の言葉を使うので何語かも全くわからず、タクシー同士が無線で大きな声で会話しながら走ることが日常でした。

一般的にこのエリアは「広東語」と思われていますが、広東語を使うのは香港と広州周辺あたりではないかと思います。深センは上記の通り外地人の集合体なので広東語や英語は話せず、しかも標準語もまともな標準語ではないのでとにかく言語はグチャグチャと言った感じでした。

また外地からの出稼ぎワーカーがかなり多かったため、正直治安は良いとは言えませんでした。とにかくルールは守らない、スリや殺人などの犯罪も起こっていました。ボク自身1ヶ月で3回携帯電話をすられましたし、マンション向かいの公園で殺人もありました。

現在は深セン生まれ深セン育ちの成人もかなり増えていますし、ITビジネス目的で移住した若者も多く、街の環境も治安も良くなったと聞いています。もう7年以上も深センへ行っていないので、機会があればぜひ行ってみたいと思います。

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